びぜん 光正 のあしあと 

長野県議会議員 日本共産党長野県議団 びぜん光正のブログ

信大病院の駐車場が立体化され待ち時間の短縮にびっくり

f:id:biz-m:20160917200422j:image年一回の信大病院の受診に出かけました。
信大病院にはもう50年以上かかっています。

私は保育園に入って間もなく、私の跛行を近所のおばちゃんに言われ、当時の近医の整形外科医を受診したが解らず、大学病院に紹介された。後に大学で調べて判ったことですが、この病気は出生後、後天的に大腿骨頭への血流障害が何らかの原因で起き、その虚血状態から大腿骨頭の壊死を引き起こす、男児に多いという原因不明の難病であるといいます。そして、その診断で、4歳の確か七五三の日に手術が行われました。

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入ったばかりの保育園を退園し、手術が恐ろしかったこと、そして、イタズラとか親の言う事を聞かなかったりした時に、怒られると「脚を切ってもらうぞー」と今だったらとんでもない「虐待的な?」脅し?もあって、それはそれは恐ろしかった。

手術当日は大量出血も予測され、親戚も集められ輸血のための採血も行われていたようです。(結局は輸血は行われず、その血液は他の誰かに使われた模様)
ほぼ一日に及ぶ手術で、予定時間が過ぎても一向にオペ室を出てこないことに、両親はダメになってしまったのかと思ったそうだ。(諦めが早いー)
今50年経っても、手術台にあがりモニター類のコードが付けられ、眩しい無影灯の下で全身麻酔が効いてくるところまではよく覚えていますが、小児期の柔らかい脳の片隅に刻みつけられた当時の身には重過ぎる経験だったと思います。

目が醒めて小児科のベッドの上でそれから年明けの1月末まで入院したと記憶しています。当時は付き添いの母親は35、6歳だったと思います。小児の付き添いは患者ベッドの下に布団を敷いて休んでいたと思います。母親も若いから耐えられたと思いますが、約2ヶ月の入院にはいろいろな事がありました。

ある日廊下を挟んだお向かいの部屋は個室になっていたと記憶していますが、一回だけ会った子だったのですが、看護婦さん達が足早に対応していたと思ったら、やけに部屋が暗くなっていて、私は母に何でそうなっているのか何度も尋ねました。母は教えてくれないから何度も大きな声で尋ねたら、今度はツネってくるので頭にきて大泣きして困らせた事がある。しばらくしてこの子は小児癌の末期で短い命を全うされたという事を知りました。病院というところが本当に怖いところだと心底思った時。

またちょうど入院していた頃はクリスマスがかかっていて、夜、窓の外の下を見ると看護婦さんをはじめとした職員の皆さんがロウソクを灯してサークルを作ってクリスマスの雰囲気を作り出してくれていました。殺風景で退屈で当時はテレビも無かったわけですから、とても幻想的で記憶に残っている。今となっては看護の労働現場の高度化、重度化等一層大変になっているなかではそうした事は中々出来ないと思いますが、特に印象的でした。
また同じ病室には同じ年頃の幼児が入院していて、特に女の子の脱臼患児は何人かいた。その1人は今も覚えているが2歳ほど歳下だったと思います。高校生頃までは外来受診時に何度も会った事がある。可愛らしい娘さんになっていたが、もう今となっては会う事もありません。

信大病院の外来で呼び出しを待っている椅子に掛けながら、何度も子どもの頃連れて来てくれた母は他界して3年が経ちました。私が理学の研究者を目指していた時にここの大学しか受からず、「そうは言っても大病してたんだから医療の道で頑張れば」と(よくも知らないだろうに)単純に母に言われて進学し、なんとか国試はパスし、現場で臨床検査技師として働きました。今は医療現場も離れ、働いた期間よりも長く医療福祉制度等を少しでも良くしようという立場で働く議会人となった。

そんな頃の面影を思い起こしていました。


それにしても、信大病院の駐車場は立体化され、入車の待ち時間が短縮され、とても通院にかかる時間が短縮された事に驚いたのでした。